略歴
1938年生まれ。陸前高田市出身。立教大学法学部卒。1964年日刊スポーツ出版社入社。
ゴルフ雑誌の編集を経てゴルフジャーナリスト。内外のトーナメントを取材しながら多くのトッププロを密着取材。分かりやすい技術論と辛口の評論で知られる。「杉本英世のべストゴルフ」「村上隆の秘密のゴルフ」「トッププロのここを学べ」「誰も教えなかったゴルフ独習術」(基礎篇、ラウンド篇)など著書多数。ゴルフジャーナリスト。
コラム
・第二回 ゴルフのエチケットを守ることは「情けは人の為にならず」
・第六回 海外メジャートーナメントと日本ツアー開催コースの違い
・第十回 聖地・セントアンドリュースの「ニューコース」で思ったこと
「公益社団法人日本プロゴルフ協会(PGA)は文部科学省管轄のもと日本国において唯一のプロゴルファーの認定団体」とされている。現在、PGAが認定しているプロゴルファーの資格には「トーナメントプレーヤー(TP)」と「ティーチングプロ」(TCP)の2種類がある。
トーナメントプレーヤーはツアー競技で賞金を稼ぐプレーヤーのこと。16歳以上の男子なら誰でも受験できる。ティーチングプロ部門はB級とA級があり、受験資格は20歳以上。
B級の資格を取得するにはPGAの定めた一定基準に達した受験者が実技審査合格者として筆記試験、面接審査を受験する。講習会では、数々の厳しい検定が行われ、そのすべてに合格した受講生だけが入会セミナーを経て、PGAティーチングプロ会員として登録され、PGAに入会できる。B級の資格を取得すると、次はゴルフの指導法だけでなく、これからのゴルフ界を担うゴルフプロフェッショナルを目指すための講習に進む。
PGAは文科省の管轄下、日本で唯一のプロゴルファーの「資格認定団体」とされているので、PGAのティーチングプロは国家試験に準じる資格と言ってもよい。
PGAのテストに合格したティーチングプロがいる練習場にはプロの資格を持っていることを証明する認定証が掲示されている。
ところが、いつのころからかPGAのプロテストを受けずに、アメリアのゴルフアカデミーに留学し、アメリアの著名なティーチングプロに師事してゴルフの指導法を学んできたなどと言って、「ツアープロコーチ」といった肩書を作って、テレビやゴルフ誌などで堂々と活躍している人たちが増えている。英国PGAの資格を持っているというプロがテレビで教えてるのを見ることもある。アメリカの女子プロ協会(LPGA)の資格を取得して日本でインストラクション活動している女子プロもいる。
男子もアメリカのPGAの資格を取得して日本で活躍しているというのならともかく、アメリカのゴルフスクールで学んだとか、誰かに師事したという程度で、テレビなどで活躍しているのを見ていると、だから日本のプロゴルフ界は遅れているのだと思わざるを得ない。
100万円以上をかけてPGAのティーチングプロの資格を取得したプロたちをしり目に、プロの資格を持っていない人たちがテレビで活躍しているのを見ていると、日本プロゴルフ協会は一体何をしているのだと言いたい。
第二回 ゴルフのエチケットを守ることは「情けは人の為ならず」
バブル経済が崩壊して日本のゴルフは大きく変わった。一番の変化はキャディー無しのセルフプレーが普及したこと。バブルがはじけるまでは「キャディー付き」のプレーが当たり前だった。だから、フェアウェーの目土も、バンカーならしも、グリーン上のピッチマーク直しも、すべてキャディーがやってくれていた。
グリーン上でボールをマークしたりボールを拭いたりするのもキャディー任せ。至れり尽くせり、上げ膳すい膳の「殿様ゴルフ」だった。
だから、土日祭日のビジターフィーは3万円以上が当たり前で、平日でも2万円以上のコースが多かった。バブルのころはそれでもゴルフ場はどこも混んでいた。平日でもスタートをとるのは容易でなかった。
日本のゴルフ場は「社用ゴルフ」「接待ゴルフ」によって支えられ、繁栄してきた。評論家の大宅壮一はゴルフ場を「緑の待合」と言った。接待するにはむしろプレー代は高いほうがよかったわけだ。
しかし、バブル経済が崩壊して日本のゴルフは一変した。「社用(接待)ゴルフ」という梯子が外されたのでどこのゴフル場も来場者が激減した。
バブルがはじけて日本のゴルファーは激減したといわれているけれど、日本は個人のポケットマネーでプレーする「本当のゴルファー」より「会社の仕事」としてプレーする「社用ゴルファー」がいかに多かったかということだ。だから私は「ゴルファー」が減ったのではなく、「社用ゴルファーが減ったのだ」と言っている。
社用ゴルファーが激減したことによって、ゴルフ場はビジターフィーを安くしなければならないので急遽キャディー無しのセルフプレーに切り変えた。それによって、首都圏でも栃木県、群馬県、茨城県など遠いゴルフ場は平日のビジターフィーは
昼食付きで1万円を割って、6~7千円でもプレー出来るようになった。ポケットマネーでゴルフをやっていた「本当のゴルファー」にとってはバブル崩壊は様々(さまさま)だった。
しかし、セルフプレーが普及しても目土袋を自分で持ってプレーする人はめったにいない。フェアウエーの目土、グリーンのピッチマーク直しをするゴルファーは相変わらず少ない。そのため、バンカーには靴跡が残り、グリーンはエクボだらけのコースが多くなった。
ディボット跡に目土をしたりバンカーをならしたり、グリーン上のピッチマークを直すなどコースを保護することは、ゴルファーが必ず守らなければならない「エチケット」としてルールブックの第一章に明記されている。
「情けは他人(ひと)のためならず」ということわざがある。プレーヤー全員が目土をしたりバンカーならしをしたり、あるいはピッチマークを直したりすれば、全員が常にボールのライが良いところからプレー出来る。だから、エチケットを守ることは、「情けは他人(ひと)のためならず」だということを肝に銘じてプレーしてもらいたい。
日本の女子プロがこんなに強くなったのはジュニア時代から優れたコーチの指導を受けてきたからだ。お陰で早い時期に良いスングを身に着けているので、昔のようなオーバースイングの女子プロはいなくなった。しかし、男子プロは専属コーチをかかえている選手は相変わらず少ない。
アーノルド・パーマーの出身校である米国ウェークフォレスト大学のジェシー・ハドックというコーチを二度取材に行ったことがある。ハドック氏はパーマーと同期で、学生時代は選手として活躍し、卒業後はコーチとして母校に残り、ラニー・ワドキンス、ダレン・クラーク(英)、全米オープン2連覇のカーティス・ストレンジなどメジャーチャンピオンを育てた名コーチとして知られていた。
アメリカのゴルフの強豪校には必ず優れたコーチがいる。しかし、日本の大学には名のあるコーチは今だにいない。かつて日本大学からは多くのプロゴルファーが世に出ているけれど、ゴルフ界では有名な竹田昭夫監督はコーチではなかった。松山英樹の母校・東北福祉大の阿部靖彦監督も技術に関するコーチはやっていない。
アメリアの選手は大学を出た後も必ず専属コ―チを抱えている。タイガー・ウッズでさえ、ジュニアのころからコーチがいなかったことはない。
日本も他のスポーВは個人競技の場合は必ず専属のコーチがついている。水泳、テニス、フィギュアスケート・・・個人競技はコーチ無しでは戦えないと言ってよい。
しかし、それなのに何故か日本の男子プロはコーチを持たずに戦っている選手が多い。松山は米ツアーで5勝を挙げている。しかし、17年にWGCブリヂストン招待で勝って以来3年以上タイトルに手が届かないでいる。「そろそろコーチを付けたほうがいいんじゃない?」という中嶋常幸のアドバイスにも耳を貸さずに、一人で試行錯誤を続けている。
かつて世界の帝王といわれたジャック・ニクラスにはジュニア時代からジャック・グラウトという名コーチがついていた。
将棋の大山康晴名人が「頂点に立ったときにはすでにスランプが始まっていることがある」と本に書いているのを読んだことがある。これはゴルフにも言えることだと思う。絶好調だと思っていても、自分では分からない部分から狂い出していることだって無きにしもあらずだというのだ。
どうしてコーチが必要なのかというと、自分の目で自分のスイングを見ることは出来ないからだ。「ビデオを見れば分かる」と言う人が多いと思う。しかし、ビデオでは微妙なテンポとかリズムとかタイミングといったことは、生(なま)の動きを見ていないと分からないことが多いのだ。自分の生のスイングは自分で見ることは出来ないのだから、自分に成り変わって見てくれるコーチは絶対不可欠なのだ。
自分では正しいと思ってやっていることでも、確かな目を持っているコーチが見ると、「ここをこうしてみてはどうか?」ということも出てくるわけだ。「自分のことは自分が一番よく分かっている」と言う人が多いと思う。しかし、何度も優勝している人でも間違っていることに気がつかないでいることだってあるのだ。トム・ワトソンは、もう一歩のところで何度かメジャーを逃がした後、バイロン・ネルソンの門を叩いて、新帝王への道を切り開いている。
昔、月刊パーゴルフで、鬼才といわれた戸田藤一郎に有望な若手選手をコーチしてもらう「戸田道場」という連載を私は長い間担当していた。村上隆は戸田に教わった翌年、日本と名のつく四大タイトル(日本オープン、日本プロ選手権、日本マッチプレー、日本シリーズ)を年間制覇し、ジャンボ尾崎を抑えて賞金王になったことがある。
スポーツの世界では「名選手=名コーチにあらず」と昔からいわれている。しかし、ことゴルフに関して言えば、勝つためのゴルフを熟知している名手に師事したほうがいいと思っている。 1969年、前回の東京オリンピックの年に私はゴルフのメディアの世界に入った。6年間、ゴルフ雑誌の編集をやってからフリーのゴルフライター(ジャーナリスト)になり、82歳の今もまだ現役で書いている。 私がゴルフ界に入ったころは戸田藤一郎、中村寅吉といった往年の名手がまだ健在だった。戸田は48歳の最年長で日本オープンを優勝。56歳9ヵ月の夏にはレギュラツアーの公式戦・関西プロ選手権で杉原輝雄をプレーオフで破った後、日本シニアプロ選手権を5連覇している。
ゴルフのオリンピックといわれた1957年カナダカップ(現・ワールドカップ)で団体・個人両タイトを制した中村寅吉は66歳のとき、関東プロシニア選手権で65という驚異的なスコアでエージシュートを達成している。
中村寅吉は、樋口久子を世界一に育てたことでも知られている。中学、高校と陸上競技(ハードル)の選手であった樋口久子は高校を出るとすぐ中村(川越CC所属)に弟子入りした。そして、中村が試合に出るときはいつでも樋口がバッグを担いていた。試合を取材に行って見ていると必ず樋口プロにパッティングラインを読ませていた。
つまり、試合をしながら、実戦の中でラインの読み方を教えていたわけだ。樋口プロはゴルフを始めたときから上体を右に動かす独特のバックスイングをしていた。「重いものを押すときは必ずいったん後ろに下がってから全身で押すだろう。スイングするときも同じように後ろに下がってバックスイングすると全身をボールに乗せて遠くへ飛ばすことが出来るんだ」。中村に聞くと、こう言っていた。だから、樋口は1977年に全米女子プロ選手権(メジャー)に勝つことが出来たというのだ。中村自身、バックスイングで上体を少し右に動かすことによって飛ばしていた。弟子の安田春雄もそうだった。
ゴルフ雑誌の編集をやっていたころ、「戸田道場」という連載を担当していた。当時、日本にはコーチがいなかったので、戸田の力を借りて「若手を育てよう」と思って始めた企画だった。そして、そこでは多くの若手が育った。村上隆が日本と名のつく4大タイトル(日本オープン、日本プロ選手権、日本プロマッチプレー、日本シリーズ)を年間制覇したのは戸田にパッティングを教わったからだ。
ジャンボがスランプに陥って勝てなくなったときも、雑誌の企画で戸田に教わり、直後の関東オープンで優勝。ジャンボ尾崎の黄金時代が始まったのはそれからだ。
そのジャンボ尾崎が今、世界で勝てる女子プロを育てている。
高校を卒業してジャンボに師事しているプロ1年生の笹生優花(19歳)は今年、2週連続優勝している。鍛え抜かれた強靭な下半身をバネに、こんなに速い回転スピードで振り切るスイングは日本の女子では初めてだ。新型コロナが終息したら彼女には是非米女子ツアーに専念し、世界の頂点を目指してほしいと思っている。
また、2015年からジャンボの指導を受けている身長173センチと長身の原英莉花は昨年1勝、そして今年、ついに日本女子オープンという金的を射止めている。
米国でゴルフを学んできたと言って、プロの資格を持っていないのに「ツアープロコーチ」という肩書を自分でつけて堂々と教えている人たちが増えているが、今までと違ったことを言ったり、変わったことを教えたりするとテレビはすぐ取り上げる傾向がある。テレビ等のメディアに出て人気があるからといって安心しないで、本物(のコーチ)かどうか、よく見極めることが非常に重要である。
松山英樹(29)が今年のマスターズ・トーナメントを制し、日本からもようやく男子のメジャーチャンピオンが誕生した。マスターズはその名の通り、選ばれた世界の名手(マスター)だけが出場出来る招待競技である。女子は44年も前(1977年)に樋口久子が全米女子プロ選手権で優勝、渋野日向子は一昨年、メジャー初挑戦で全英女子オープンを勝っている。
どうして男子は今まで勝てなかったのか。
野球は野茂英雄投手が95年にドジャース入りして活躍し、日本の選手もやれることが分かった。野茂が架けた橋を渡る選手が続いて、今では多くの日本選手がメジャーで活躍している。
ゴルフの場合、80年に青木功が全米オ―プンでジャック・ニクラスと激闘の末、1打差で涙を呑んだ。日大を出た丸山茂樹は8年間、米ツアーで戦って3勝している。
ジャンボ尾崎は国内では100勝以上挙げているのに、世界には出て行きたがらなかった。マスターズ8位、全米オープン6位と、メジャーでトップ10に入ったのは2回だけ。
国内で賞金王になればマスタ―ズに招待される。全英オープだけでなく、全米オープンも今は国内予選会が行われている。しかし、出場資格を得ても本戦では予選を通るのがやっとである。
13年に東北福祉大を卒業した松山は翌年から主戦場を米ツアーに移し、5勝している。しかし、17年から勝てなくなっていたので、「そろそろコーチを付けたら?」という声も聞かれるようになっていた。昨年末、ようやく目澤秀憲(30)とコ―チ契約を交わした。
スイングに硬さが感じられなくなった。フィニッシュで力が残っていたのが脱力するようになった。いままでのように、顔を後ろに向けずに振り切っている。これならあまり左に曲がる心配はないように見える。
同じ歳の石川遼は「急がば回るな」と言って高校を中退してプロになった。しかし、松山は明徳義塾高校から東北福祉大学に進んで4年間、世界で勝つためのゴルフをゆっくろと習得した。
アメリカの選手は昔からシカラシップ(奨学金)で大学に進み、卒業するときはツアーで勝てる力をつけているといわれる。
石川は19歳のときに国内ツアーの賞金王になったが、米ツアーではシード権を獲れずに帰国し、結果的には遠回りしている。金谷拓実は松山と同じ大学に進み、在学中に三井住友VISA太平洋マスターズで優勝、卒業してプロになってすぐツアーで2勝している。松山を追って米ツアーに行こうとしているのだと思う。高校を出で日本で戦ってもコースが易しくて、レベルが低いので強くなれない。大学に進んで4年間、優れたコーチの元でじっくりと腰を据えてゴルフを学んだほうが世界で戦う力を養うことが出来る。
第六回 海外メジャートーナメントと国内ツアー開催コースの違い
球技は一個のボールをめぐる攻防戦である。ゴルフももちろん球技である。しかし、ゴルフは自分のボールでプレーしたスコアで競そうゲームなので、戦う相手は人間ではなくゴルフコースである。だから、ゴルフにはトッププレーヤーが戦っているコースを見る楽しみもある。私は1981年から2002年にぺ―スメーカ-を入れてドクターストップがかかるまでの20年間、全米オープンだけは欠かさず取材を続けてきた。最初に見た全米オープンの舞台(コース)は6,544ヤード‣パー70と距離の短いメリオンGCで、球聖とまでいわれたボビー・ジョーンズが年間グランドを達成したコースとして知られている。ベン・ホーガンが自動車事故から奇跡のカムバックを果たし、2度目の全米オープンを制したコースでもある。81年のチャンピオンは通算7アンダーのデビッド・グラハム(豪)だった。「毎日、同じところにティーショットを置くことを心掛けた」とグラハム。ゴルフは「プレースメントのゲーだ」とグラハムは言っていた。
ある方向に向かって出来るがけ遠くへ飛ばしてやるのではなく、ティーショットはフェアウエーのどこに置いたらよいかを決めたら、そこへ向かってボールを運んでやるのだ」という。
「プレーすメント」はテニスでもよく出て来る言葉で、相手コートの狙ったところに的確に打ち込んでやること。 記者会見で、グラハムは「プレースメント」と言う言葉をよく使っていた。
メリオンには350ヤード足らずの短いパー4が7ホールもある。右あるいは左に首をかしげるようなグリーンが多く、その手前には深いバンカーが待ち受けていて、グリーンの奥行きは数ヤードしかない。
見ていると2番アイアンでティーショットし、セカンドをウェッジで打っている。何日も前から散水を止めてしまうと言っていたので、フェアウエーからウェッジでどんなにバックスピンをかけてもボールは止まらない。深いバンカーに入れたらボギーを覚悟しないといけないので、ピンをショートしないように根元にキャリーさせるというな距離感で打っていかなければならない。そうしてピンの間近に柔らかく落としても、ボールは奥のラフに向かってゆっくりと転がっていく。だからプレーヤーはボールが止まるまで歩き出さない。メリオンの全米オープンは見ていても息が詰まるような試合だった。
マスターズを除くメジャーでリー・トレビノは6勝(全米オープン、全英オープン、全米プロを各2回)している。彼は何度も来日している。取材を頼むと、練習ラウンドをしながらよく話をしてくれた。そこで、日本人が米ツアーで勝つにはどうしたらいいか?と訊いてみた。トレビのいわく「もっとタイトなコースで試合をやらないといけない。日本にはヒーリーなコースが多く、フェアウエーの左右がスロープでガードされているのでティーショットを曲げてもフェアウエーに出て来るケースが多い。PGAツアーはそういうコースではやらない。日本はメジャーな試合をそういうコースでやっている。これでは正確なティショットを覚えることは出来ない。日本の選手は振り過ぎる。フェアウエーを外してもグリーンを狙えるコースで試合をやっているからだと思う。ハーフラウンドで1回、フェアウエーを外したらメジャーでは勝てない」。
そういわれて、全米オープンの開催コースを想い起してみるとフェアウエーよりラフが高くなっているコースは記憶にない。日本は丘陵地帯のコースはショットを左右に曲げてもフェアウエーに戻って来ることが多い。そういうコースで試合をやっている。だから国内で賞金王になっても米ツアーに行くとシード権をとれずに帰ってくるのである。早く世界水準のコースで試合をやらないと米ツアー勝てるプレーヤーは育たない。
「国内の女子ツアーは、はたち(20歳)そこいらの若い有望な選手が次々に出て来ているのはどうしてなのか」とよく聞かれる。
まずいえることは、昔と違って今はゴルフを始めるのが早くなっているからだ。昔は男女を問わず、中学や高校を出てからゴルㇷ場でキャディーをやりながらプロになるのが普通だった。
川越市(埼玉県)出身の樋口久子は中学時代に陸上競技(ハードル)の選手として活躍した。都内の高校に進んだときは砧ゴルフ場(現在の砧公園)に勤めている実姉のアパートから通学した。そんな関係から砧ゴルフ場のヘッドプロをやっていた中村寅吉プロが川越CCの社長をやることになったので、樋口は寅さんのキャディーをやりながらプロになった。そして国内の女子ツアーで73勝し、11回も賞金王になっている。海外でも活躍し、74年オーストラリア女子オープン、76年ヨーロピアン女子オープン、そして77年には世界のメジャー、全米女子プロゴルフ選手権で優勝した。
テレビ解説をしている森口祐子は高校時代はバスケットボール部のキャプテンだった。高校を出てから岐阜関CCでキャディーをやりながらヘッドプロの井上清次の指導を受けてプロになり、通算41勝した。
塩谷育代は樋口久子が陸上競技をやっていたと聞いて、高校を出たらゴルフをやろうと思って中学、高校と陸上競技部に入り、走り幅跳びをやっていたと言っている。ゴルフをやるために陸上競技をやったというのだ
高校を卒業して練習場に就職してプロになってからは、男子プロの金井清一らとともに東海大学の田中誠一教授の指導を受けて科学的なトレーニングに励んだ。そして女子ツアーで20勝を挙げ、2回、賞金王になっている。
岡本綾子は高校を出て大和紡績福井のソフトボールのエースで4番を打ち、71年の和歌山国体で優勝している。ソフトボールをやめて池田CCでゴルフを始めたのは73年。21歳のときだったが、それでも1年後にはプロテストに合格している。今の女子プロに比べるとずいぶん遅くゴルフを始めているわけだが、それでも国内で44勝、LPGA(米国女子ツアー)で17勝を挙げ、87年には外国人として初めてLPGAの賞金王に耀いている。
女子のジュニアゴルファーが増えたのは宮里藍に憧れ、親が子供にゴルフをやらせるようになったからだといわれている。藍は父がティーチングプロだったということもあって小学校に入る前からゴルフを始め、高校時代にツアー競技(ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン)で優勝してプロ宣言し、初の高校生プロゴルファーになっている。そして国内で15勝した後、米国LPGAに本格的に参戦して9勝を挙げている。しかし、宮里は「モチベーション(意欲、やる気)を維持できなくなった」と言って32歳の若さで引退してしまった。
ゴルフは激しく体を動かすスポーツではないので、32歳と言えば、「まだまだこれから」という感じだが、「早くゴルフを始めると引退するのも早い」とよくいわれているようにあっさりと引退し、翌年結婚した。
ゴルフは体を捻ることによって、ボールを飛ばすためのスピードを出さなければならないので、腰に加わる負担は想像をはるかに超えるといわれる。岡本綾子もアメリカで腰を痛め、手術をしてからLPGAの賞金王になっている。
稲見萌音は9歳のときゴルフを始め、アマチュア時代からいろんな競技で優勝した。高校を出て日本ウィルネススポーツ大学に入学した18年にプロテスト合格。翌19年のセンチュリー21レディスでプロ初優勝。21年、稲見は国内ツアーで4勝して東京五輪の日本代表になり、リデア・コ―をプレ―オフで降して銀メダルを獲得した。新コロナのために一つのシーズンに合体した20年と21年、稲見は9勝して賞金ランク1位になった。
しかし、今シーズン(22年)は腰痛とも戦っているので、優勝争いにはまだ加われないでいる。今季は澤木弘之トレーナーを迎えて、イメージ通りのスイングが出来るように、体の可動域を広げるトレーニングにも取り組んでいるようだ。
「名コースが名ゴルファーを育てる」と昔からいわれている。ゴルㇷは人間が相手ではなく、ゴルフコ―スとの戦いである。だから戦略的に優れたコースで試合をやらないと強い選手は育たない。
日本のゴルフ場は戦前造れたコースのほうが今でも戦略的にはタフなコースが多い。戦前からのゴルフ倶楽部は英国などの名のある設計者がデザインしたコーが多いので、戦略的にもしっかりしている。
ただし、戦前造られたコースはみんな高麗芝のワングリーンだった。北海道や本州でも軽井沢など夏でもあまり暑くならないところなら夏でもちゃんと維持出来るのだが、本州の夏は暑くて湿度が高いのでベントグリーンは管理出来なかったからだ。
だから戦前造られた本州の倶楽部はみんな高麗のワングリーンだった。1957年、ゴルフのオリンピックと言われていたカナダカップ(現・ワールドカップ)が霞ヶ関CC東コースで開催され、日本の中村寅吉、小野光一組が個人・団体両タイトルを制覇したときも高麗のワングリーンだった。アメリカのサム・スニードを初め世界のトッププレーヤーを抑えて日本が優勝出来たのは芝目の強い高麗グリーンで試合が行われたからだと言われている。
カナダカップで日本が優勝したことによって第一次ゴルフブームが到来、多くのゴルフ場が誕生した。しかし、出来上がったゴルフ場は100を切れないようなゴルファーでもプレ―の流れ(進行)を良くするために易しいコースが多く造られた。 そしてグリーンは高麗とべントのツーグリーンだった。芝が改良されて本州でもベントグリーンを造れるようになったのだが、それでも本州のコースはベントだけでは夏を乗り切れないので、夏は高麗、冬はベントと使い分けるためにツーグリーンが造られた。そのため、高麗はサマーグリーン、べントはウィンターグリーンといわれた。
今は日本の気候に合ったベントグラスが開発されたことによってべントのワングリーンのゴルフ場が増えつつある。今や高麗グリーンで試合をやっているプロのツアーは男女合わせて2コースぐらいしかない。
高麗グリーンがなくなったために、グリーンの芝目を読める若手プロが少なくなったとよくいわれる。高麗グリーンは芝目が強かったが、ベントグリーンはほとんど傾斜だけでラインを読むことが出来る。
ところがアメリカにはベントグラスの他にもバミューダ、ティフトン、ポアナ、キクユ、パスパラム(ハワイ)など、いろな種類の芝がグリーンで使われている。それらは洋芝であっても芝目がかなりある。
日本の若手プロは今や芝目の影響を受けないべントグリーンだけで試合をやっているので、アメリカのツアーに出ると芝目を読めなくなっている。高麗グリーンで試合をやらなくなってから、日本の若手プロは芝目を読めなくなって、パットが下手になったといわれている。
ポアナ芝は日本ではスズメノカタビラトいわれている雑草である。これがベントグリーンに生えると大変なことになると言って毛嫌いされている。
ところが、アメリカでは屈指の名門コース・リビエラカントリークラブのグリーンはベントではなくボアナ芝である。アメリカの西海岸のゴルフ場はポアナ芝のグリーンが多い。どんなに短く綺麗に刈り込んでもベントグリーンのようには滑らかに転がらない。短いパットはポンポン弾むとよくいわれる。近ごろ、日本にはパットの名手がいなくなったのは、「高麗グリーンで試合をやらなくなったらからだ」と、長い間、米ツアーで戦っていたプロが言っていたことがある。高麗グリーンは速いグリ―ンでもポンとしっかりヒットしなければならないのだが、ベントの高速グリーンになってから、ヒットしないで流すような打ち方をしているから入らないのだというのだ。
今年、百周年を迎えた鳴尾ゴルフ倶楽部は今でも高麗のワングリーンである。改良に改良を重ねて、高麗特有の芝目がなくなり、ボールが滑らかに転がっていいく。
ベントグリーンと違って、高麗グリーンは根が横に這うのだが、鳴尾の高麗芝の根はベント芝と同じように地下に向かって真っすぐ伸びているというのだ。
だから鳴尾のグリーンは高麗グリーンではなく、「ナルオグリーン」という名前が付けられている。
戦前、日本オープンを6勝した宮本留吉は引退後、大阪から東京・三鷹に居を移した。クラブ「トム・ミヤモト」を造りながら、週2回、練習場で一般ゴルファーのレッスンも続けた。
ゴルフ雑誌でレッスンの連載を担当していたので、取材のため毎月、三鷹の練習場と、夜はご自宅にもよく伺った。居間には、かつて渡米したとき、ボビー・ジョーンズとエキシビジョンマッチをやって勝った証(?)としてサインをしてもらった5ドル紙幣が飾られてあった。
練習場で取材しながらレッスンを見ていると、アイアンショットを教えるときは上級者だけでなく初心者にも、マットではなく、必ず土の上(ベアグラウンド)から打たせていた。
当時の練習場は相撲の土俵や野球のピッチャーズマウンドでよく使われる荒木田(あらきだ)という硬くて粘り気のある土で打席が作られていた。マットは固定されていないので、アイアンショットをダフると打席から飛び出すこともあった。だから、マットが動かないように、あまり打ち込もうとはしないで、ボールだけをクリーンに打ち抜く練習をしたのを思い出す。
宮本さんはゴルフを始めたばかりで、まだ、うまく打てない初心者に教えるときでもマットは使わなかった。土の上に直(じか)にボールを置いて打たせた。土を少し盛り上げて、その上に置いたボールを打たせながら教えていた。
マットの上のボールを打つと、正確にボールをヒットしているかどうか、自分では分かりにくいものだ。ダフってもヘッドがマットを滑って振り抜けるのでボールは勢いよく飛んでいく。
「練習のときはうまく打ってるのに、コースを回っているとアイアンがよくダフるのはうしてなんだろう?」と首をひねりながらプレーしているゴルファーが多いと思う。芝の上ではなく、マットの上で練習しているためにダフリ気味のショットをしてもヘッドが振り抜けてボールは飛んでいくので、ダフっていることに気が付かないでいるわけだ。
ところが近ごろはどこへ行ってもコンクリートで固められた打席の練習場が多くなっている。相当郊外へ行っても、今は打席が荒木田の土で出来た練習場なんてめったにないと思う。
ゴルフ場の練習場も戦前からある名門といわれているゴルフ倶楽部はクラブハウスの近くに大きな練習場がある。アメリカのプライべト倶楽部は一番良いところに練習場を作ると言われている。初めてアメリカに行って大きな立派な練習場を見たとき、「だからアメリカは強いんだ」と思ったというプロがいる。
アメリカには、日本のように街にはゴルフ練習場がない。ゴルフ場が町に近いということもあって、ゴルフ場に立派な練習場がある。日本も昔のゴルフ場には立派な練習場があったが、戦後、しばらくして出来たゴルフ場は練習場を重要視しなくなってしまった。
バブルの頃は、クラブハウスだけが豪華で、ハウスから離れたところに、距離も短くて打席も少ない、粗末な練習場を作るゴルフ場が増えた。
練習場のないゴルフ場も増えた。そういうゴルフ場には行く気がしない。ゴルフ場の練習場はマットではなく、天然の芝の上で打たせてもらいたい。「そんなことをしたらグリーンフィーが高くるので困る」というゴルファーもいると思う。しかし、ラウンドだけでなく、ロングショットからアプローチショットまで、天然の芝から心ゆくまで練習したい。
そんなことをしたら、芝が1カ月もしないうち無くなってしまうと、心配する人もいると思う。いくら打って芝がなくならない習法を教えましょう。これは昔、陳静波プロに教わった練習法である。
アイアンでダウンブローに打ち抜くと芝が切り取られる。ショットをしてターフ(芝)が取れたら、一番手前(右端)の芝の上にボールを置いてボールを打ち抜いてやる。ダフらずに正確にダウンブローにボールをとらえて振り抜けば、何べん打ってもボールの手前の芝は取れずに、ボールの左側の芝しか取れないのだから、芝を痛める心配はない。
プロもマットの上ではなく、天然の芝で、あるいはベアグラウンドで練習しないと絶対強くなれない。
第十回 聖地・セントアンドリュースの「ニューコース」で思ったこと
今年7月、全英オープンの第150回の記念大会が開催されたセントアンドリュースオールドコースは市営のパブリックコースである。私が全英オープンを初めて取材に行ったのは1990年のセントアンドリュースオールドコースであった。
試合が終わった夜は17番ホールのすぐ隣のオールドコースホテルに泊まった。夜、高いところからコースを見たいので5階の部屋を取ってもらった。月明かりの中でコースを見下ろすと、点在するポットバンカーがまるで月のクレーターのようだった。17番のグリーンから18番のティーイングエリアに向かって少し歩くと、18番と1番ホールのフェアウエーを横切って向こうへ渡れるかなり広い道路がある。プレーしてない人でもゴルフ場の中の道路を自由に歩けるようになっているのには驚いた。翌日、プレーして18番ホールに向かって上がってくると、ハーフセットのキャディーバッグを背にした中学生ぐらいの子供たちが自転車でコースにやってくるではないか。聖地といっても、だれでも自由にプレー出来る市営のパブリックコースなので、校が終わると子供たちもプレー出来るというのだ。
日本のゴルフもだいぶん大衆化したと言っても、ビジターフィーが少し安くなったと言うだけで、子供たちが学校が終わってからプレーしているなんて話は聞いたこともない。聖地といわれるセントアンドリュースオールドコースで、中学生が自転車で来てプレーしているなんて想像も出来ないことだった。
日本にも「パブリックコース」と言われるゴルフ場はある。しかし、市で経営している本当の意味のムニシパル(市営)のゴルフ場は日本には数えるほどしかない。
「○○パブリックゴルフ場」という名前であっても、日本の場合はメンバーシップ(会員制)ではないという意味で、市営ではなく、私営のゴルフ場であることには変わりないのだ。だからパブリックゴルフ場だからいってプレーフィー(料金)が特別安いわけではない。
英国から米国に渡ったゴルフはプライベートな会員制よりもむしろムニシパルの公営のゴルフ場が広く普及した。だから他のスポーツと同じような感覚で、誰でも安くプレー出来るようになっのだと思う。しかし、戦前、英国から日本に入ってきたゴルフは資産家の社交倶楽部として定着したために、残念ながらアメリカのようには大衆化しなかった。
ところで、セントアンドリュースにはオールドコースだけでなくニューコースもあることをご存じだろうか。ホテルのフロントで聞くとオールドコースのすぐ隣りにあるというので、試合が始まる前にバッグを担いでいってみると、地元のゴルファーと一緒にすぐプレーできた。
ティイングエリアにはちゃんと芝が生えているのだが、フェアウエーは芝がまばらであことに驚いた。「コンディションが良くないですね」と地元のゴルファーに聞いてみると、いつでもこうだ言うのだ。
フェアウエーからグリーンを狙ってアイアンショットをすると土煙りが舞い上がるのだ。台風の後の河川敷コースのようなフェアウエーなのだが、地元の人たちは平気な顔をしてプレーしている。
「ティーインググラウンドとグリーンがよければフェアウエーはどうでもいいんだ」と、ゴルフの仕事を始めたころ、いろいろ教えていただいたスポーツイラストレーテッド誌のアジア代表だった故・金田武明さんに言われたことを思い出した。「日本はフェアウエーもラフも全部きれいにするからグリーンフィーが高くなるのだ」というのだ。セントアンドリュースのニューコースはフェアウエーの状態は酷かったけれど、ティーイングエリアとグリーンは見事だった。
日本のゴルフ場はどこへ行ってもフェアウエーの芝も綺麗に刈り込んである。高麗芝なのでボールは浮いているのでまるでティーアップしたような状態だ。アイアンも払うような打ち方が出来るので、だから、少しでもライの悪いところに沈んでいると、ダウンブローにボールをとらえることが出来なのかもしれない。今年、アメリカのメジャーに出場した日本の女子選手が「何度もディボット跡に入っていて悲しかった」と言っていたが、そんなことを口に出しているようでは世界に出ていったらろくな成績を出せなないと思った。
ゴルフの聖地といわれるセントアンドリュースでもニューコースは芝の状態は決して良くないのだ。日本なら「こんな芝のないゴルフ場ではカネを払えない」という声が聞こえてきそうだが、セントアンドリュースの人たちは、フェアウエーにナイスショットをして、行ってみるとボールは芝がはげたところにあっても文句ひとつ言わずに打っている。
「ハードラック」という言葉がある。「自然」が残されているスコットランドのリンクスではフェアウエーにナイスショットしてもキックが悪くて深いラフに入ることだってある。そういうときに使われるのがハードラックという言葉で、「不運」という意味だ。ゴルフは自然との戦いなのだから、そういうときはハードラックと思わなければならないというわけだ。
わたしはセントアンドリュースで、ゴルフは人生そのものだということを教わって来たような気がする。(ゴルフジャーナリスト、菅野徳雄)
リブ(LIV)ゴルフという世界規模の新しい男子ツアーがスタートした。サウジアラビア政府系の投資ファンドが出資して2021年にスタートしたばかりの「リブゴルフ・インビテーショナル(招待)シリーズ」。元世界ランキング1位のグレッグ・ノーマン(67)がCEO兼コミッショナーを務める。こんな超高額賞金のゴルフツーを始めた意図は一体どこにあるのだろう。世界のツアーから出場者を募って、予選もなく、招待の形で出場させる。
2020年6月、開幕戦が英国ロンドン郊外で開催され、2011年マスターズ・チャンピオンのチャールス・シュワツエル(南ア)が優勝し、何と475万ドル(約6億2,000万円)を獲得した。この後、舞台を米国に移し、22年には8試合が行われる。23年以降は年間14試合まで試合を増やす予定だと言われている。ツアーというには、年間14試合はあまりにも少ないではないか。
「あとは、どこかのツアーに自由に出てください」と言っても、米ツアーはリブゴルフに出場した選手は出場資格を剥奪することを決めている。リブゴルフに行ってみて、意にそぐわないツアーだと思っても、米ツアーにはもう戻れないのだ。
リブ招待の賞金総額は500万ドル(約588億9000万円)になるという。高額賞金で、なおかつ予選落ちがないというのだ。従来のツアーは4日間72ホールの試合で、2日間の予選でラウンドを行ってだいたい半数がカットされる。予選落ちした選手はまったくのただ働きだ。
その点、リブゴルフは予選落ちがない。全員が賞金を貰える。そのため、米ツアーの中には、リブゴルフは真の競技ゴルフではなく、エキシビジョンマッチだと言っているプレーヤーもいる。試合形式も従来のツアーとはまったく異なる。リブ・ツアーは4名で構成されるチームが12チームあって、48名の選手によって個人戦と団体戦が同時に行われる。
リブゴルフは3日間54ホール。しかも全ホールから一斉にスタートするショットガン方式。テレビで放映する場合、ショットガン方式の試合はどういうふうに追うのだろう。
54ホールの試合は日本の女子ツアーに多く見られるホール数だが、男子ツアーは世界中どこでも72ホールで行われている。前半2日間で予選をやって、後半の2日間で決勝をやって、これなら真の実力を競うことが出来るということから出てきたホール数である。
米ツアーも通常の試合でも今は優勝すると1億円以上貰えるようになった。一週間働いて優勝すると1億円は大変な賞金だと思う。ところがリブゴルフは開幕戦の優勝賞金が6億円を超えた。上位に入らなくても1億円ぐらいは簡単に手に入る。億という単位のカネがこんなに易々と手に入っていいのだろうか?と、他人事ながら空恐ろしくなる。
サウジアラビア政府系の投資ファンドって、実態はどんなものなのだろう。サウジアラビアと言えば、いろいろ人権問題が指摘されている国ではないのか。賞金は一体どんなところから出ているのか、何の疑いもなく、超高額賞金に魂を奪われたかのようにPGAツアーから出て行った選手たちは、賞金はどんなおカネなのか、分かっているのだろうか。「そんなことは分からなくてもいい。高額賞金さえもらえればいいんだ」と言う選手がこんなにも多いということなのだろうか。
フィル・ミケルソン、ダスティン・ジョンソン、セルヒオ・ガルシア、イアン・ポールタ―、ブルックス・ケプカ、ブライソン・デシャンボー、ポール・ケーシー…PGAのトッププレーヤーが続々とリブゴルフに移っていっている。
PGAにはもう戻ってくることが出来ないと分っているのに、又、リブゴルフがツアー競技としてちゃんとやって行けるものなのかどうか まったく分からないのに、どうして簡単に出ていくのか理解出来ない。
40歳を過ぎて、シニア入りが遠くないという人なら、リブゴルフがうまく行かなかったとしても、さほどの問題はないと思う。しかし、これからという人たちが目先の高額賞金に目が眩んで人生を狂わせたら、こんな悲しいことはない。
リブゴルフはテレビの放映が決まっているのかと言えば、まっく白紙状態らしいではないか。PGAは放映権を持っているから安泰なのだが、リブゴルフはテレビ中継の当てがあるのだうか。入場券の売れ行きはどうなのだろう。 招待で簡単に出られる競技を見にいく人は一体どのぐらいいるのだろう。
優勝争いをしなくても、あまり上位に入らなくても1億円も貰える試合なら、必死にプレーをしない選手も出てくるのではないのか。エキシビジョンマッチのような緊迫感のない試合になったら、見に行こうという人は少ないと思う。(ゴルフジャーナリスト 菅野徳雄)